2010年10月31日日曜日

左文字(ひだりもじ)のソフトが欲しい

自分では、左文字を書いていても、周りはすべて右文字(普通の文字)だ。左文字を書く環境は現状ではまったくない。

そこであらためて、左文字を書くために欲しいものを上げてみたい。まず左文字の辞書だ。本格的な百科辞典的な辞書から、簡単な用語用字辞典までほしい。

それから、左文字の日本文学全集や、世界文学全集が欲しい。文庫本でも欲しい。左文字で書かれた文学の世界に浸ってみたい。深い感性の世界を左文字で経験してみたい。

さらに、左文字で書かれた新聞や雑誌が欲しい。タイムリーなテーマを左文字で考えてみたい。

左文字で書けるソフトも欲しい。ワープロソフトだから、右文字も左文字もないのでは、ということにはならない。なぜなら、左文字を書くようになって気付いたことだが、文字には筆向きというか、風向きのような向きというか、筆を運ぶ方向があることが気になっている。

文字を読むときに、右文字を読むときと、左文字を読むときでは、気持ちの乗りが違うような気がする。左文字を読むときは、左手や腕が動いているような気がするし、脳がおそらく右脳が活動しているような気がするからだ。このことは小さいことではないように思える。だから左文字のワープロソフトがあることに意味があると思う。


2010年10月21日木曜日

左文字(ひだりもじ)に神が宿るとき

 左文字(鏡文字)を書き続けていると、いつかその左文字に神が宿るだろうか。そんなことを考えた。

 「言霊」という言葉を最近想い出した。ある辞書には、「言葉に宿っている不思議な霊威。古代、その力が働いて言葉通りの事象がもたらされると信じられた。」と書いてある。この説明の意味するところは、現代人にはわかりにくいのではないだろうか。

 しかし、左文字を実践している私には不思議に近しい感覚が湧いてくることがある。私が左文字を書くと、その書かれた左文字はひどくよそよそしい、まるで砂のような、石のような、荒野のような、まるで味気ないもののように見えて、その冷たさに冷え冷えとした心地のすることが多い。

 そうした過程の中で、その無機的な左文字の羅列の中でも、ときには、ちらちらと何か人間的な、温度のある意味のようなものが、つまり左文字を通してその奥に垣間見えるものを感じることがある。それはたぶん、わたし自身をそこに見いだすからだと思う。自分の言いたかったことを左文字の中に見いだしたことになる。
 それを繰り返すことによって、自分の繰り返しが見えることになる。その繰り返された自分というものは、つまり喜怒哀楽に包まれた自分であり、その中の共通項のようなものが見えてきたわたし自身だ。言葉の中にそういうわたし自身が見えてきたときに、言葉は次第に霊的なもの、神的なものになるのではないのだろうか。

 これを、身近な自然の里山のようなものにたとえてみたい。普通に見れば、里山はただの山に過ぎない。しかし子供の頃から、里山を見上げて育った人間は、うれしいときも悲しいときも、失敗したときも成功したときも、人が生まれたときも死んだときも、自分が変わっていくときも、その里山が変わらずにあることに気付いてくる。それが言葉のように変わらないことに気付いてくる。その対比で、変わっていく自分に気付いてくる。その里山に自分の生活のすべての記憶が刻まれてくる。そうなるとその人間にとって、里山は霊的なもの、神のようなものに感じられるのではないか。

 里山も、言葉も変わらない、変わるのは人間だけだという、つまり成長し老いて死んでいくのは人間だけだという現実から、言霊が出てきたのではないのか。言霊信仰は自然賛美に似ている。人間の存在を超えたものに対する憧れだろう。

 左文字を実践していると、言葉を新しく考えるきっかけになるかも知れない。右利きで右文字(つまり普通の文字)を長い間書いてきた人間にとっては、現代の文字から古代人のいう言霊を感じるような感覚は、なかなか出てこないものではないかと思う。

2010年6月19日土曜日

なぜ大作家は右利きなのか、という問い

なぜ大作家は右利きなのか、という問いを、いままで問われたことはあるのだろうか。

考えてみれば、世界の大作家といわれる人々は、すべて右利きだったのではないだろうか。

たとえば、フランスのヴォルテール、ユゴー、バルザック、フロベール、モーパッサン、ゾラなど、ロシアのプーシキン、ゴーゴリ、ツルゲーネフ、トルストイ、ドストエフスキー、チェーホフ、イギリスでは、シェークスピア、デフォー、スウィフト、ディッケンズ、ハーディ、ウルフ、ローレンスなど、イタリアでは、ダンテ、ペトラルカ、ボッカチオ、モラヴィア、タブッキ、エーコなど、アメリカでは、アラン・ポー、メルヴィル、ホイットマン、ジェイムス、ヘミングウェイ、スタインベックなどの世界的な作家と呼ばれる人は、すべて右利きだったのではないだろうか。

日本でも、たとえば夏目漱石、森鴎外、島崎藤村、芥川龍之介、太宰治、谷崎潤一郎、川端康成、三島由紀夫など、あるいは吉川英治、山本周五郎、松本清張なども、右利きだった。

ここにあげたのは、もちろんほんの一例で、ほかにも優れた作家はたくさんいるが、その中で、左利きだったと知られる作家はいたのか、寡聞にして聞いたことがない。

これは他の芸術分野、音楽や絵画や建築などと比較して際だった現象ではないだろうか。これらの分野では、左利きだと知られた偉大な芸術家は、何人もいるからだ。

なぜ大作家は右利きなのだろうか、という問いは、なぜ左利きに大作家はいないのか、という問いにつながっている。

左文字は、こういう世界にも、役立つのではないだろうか。

2010年6月16日水曜日

左文字(ひだりもじ)の可能性

左文字の可能性を考えてみたい。

文字は突き詰めれば、線で作った図というか形になる。左手で書く場合、気持ちは文字を書くというより、絵を描くような感じになる。そこから書くことを繰り返して、少しずつ詰めていって文字になるという感じだ。

そこで左文字は最初は絵のようなもので、ひとつひとつの筆致はあまり意味のないものだ。そして筆致の積み重ねがひとつの絵になる。それからひとつひとつの筆致が意味を持ちはじめ、ペン画のような鉛筆画のようなものになる。それから線そのものも意味を持ちはじめ、書道のようなものに発展してくる。もっともそれは左文字になる。

これで完全に左手は自由になる。完全にとは、脳も身体全体も自由になるということだ。

2010年6月6日日曜日

文字の読みやすさとは

 左文字を書いてみて、その読みにくさを考えてみてわかることは、文字とは結局、図形に過ぎないということで、読みやすさは、その図形に馴染んでいるかどうかできまるということだ。

 逆に、右文字つまり普通の文字はなぜ見やすいのか、というか、全く違和感なく自然に見えるのかと言えば、それはしょっちゅう見ていて、まったく見慣れていて、もうそこに文字があるというよりも、文字のかたまりがあるということで、文字のかたまりの背後にある意味やイメージが見えているからだろう。

 結局のところ、左文字を使いこなすには、左文字が読めるだけでなく、左文字の背後にある意味やイメージを読めるまで、習熟する必要があることになる。しかしこれは、われわれが普通の文字が読めるようになった学習過程とまったく同じことだ。つまり、なんども文字を書き、連語を書き、文章を書いて、手と脳を使い、憶えたように、やることだろう。

 文字は線で作った図形に過ぎない、ということは、一般的には当然なことかも知れないが、わたしには、この左文字を通してはじめて実感として気付いたことで、新鮮な発見だった。

2010年6月5日土曜日

左文字(ひだりもじ)・わたしの現状と課題

 左文字(鏡文字)を練習してかれこれ2年ほどになる。いまは、日記やメモはなるべく左文字で書いていて、かなり自然に書けるようになった。一番難しい「読む」作業も、ある程度馴染んできた。

 左手で左文字を書いていて気付くのは、これは特殊な技能ではなく、ごく普通のことではないかということだ。というのは、このことは、右手で普通に文字を書くのとまったく同じことになるからだ。これは、意外と気がつかないことで、わたしもしばらくは気がつかなかった。これを知るには、試しに、紙に左文字を書いて裏から見ると右文字になっているし、逆に右文字を書いて裏から見ると左文字になっていることからわかる。

 いいかえれば、左人間が左文字を書くことは、ふつうに人が文字を書くこと、つまり右人間が右文字を書くことと、まったく同じことになる、ということだ。

 ということは、左利きの人間は左文字を書くことによって、ようやく人並みに、つまり右人間並みになれた、ということではないだろうか。

 わたしの今後の課題として、左文字でさらに深く、考え、感じ、記憶するということだと考えています。このことを考えると、レオナルド・ダ・ヴインチはやはりすごい人だと思います。

2010年4月30日金曜日

左文字 教育漢字3


教育漢字(小1年)の続きです。

左文字 教育漢字2


教育漢字(小1年)の続きです。

左文字 教育漢字1


 教育漢字の左文字を、少しずつ表示します。

  

2010年2月23日火曜日

左文字のすすめ⑥

レオナルド・ダ・ヴィンチの左文字②〉 

イタリアの作家イタロ・カルヴィーノは、レオナルドについてこう述べている。

「表現からなおも逃れ去ろうとする何ものかを捉えようと言葉を相手に闘うもっとも意味深い手本が、レオナルド・ダ・ヴィンチです。レオナルドの手稿本はより豊かで緻密、かつ的確な表現を求める言語との闘い、扱いにくくごつごつと節くれ立っている言語との闘いの驚くばかりの記録です。」

さらにカルヴィーノは、レオナルドが左文字を綴りながらも、文字を使って人間と世界をいかに正確に記述するかに、全霊を傾けたことを次のように語っている。

「彼のなかには書くことへのたえざる欲求が存在していたのでした。この世界をその多様多面において、またさまざまな秘密の奥深くを探るためにも、また自分の空想力や感動やまた怨念に形を与えるためにも、文字を使いたいという欲求です。」

「そのため、彼はますます書くことが多くなるのでした。年とともに、彼は絵を描くことをやめ、文章を書きながら、スケッチをしながら考え、あたかもデッサンと言葉によってただひとつの論を続けてゆくというようにして、あの左利きの鏡面文字でノートを埋めているのでした。」
 (イタロ・カルヴィーノ『カルヴィーノの文学講義』(米川良夫訳)朝日新聞社、1999) 

カルヴィーノが指摘したような、レオナルドのこうした激しい言葉との格闘は、左文字なくして想像できない。そのことは彼の膨大なノートの存在が証明している。彼の全能を使うには、彼には左手と左文字が必要だったのだ。

考えてみれば、すべての左利きの人間は、レオナルドと同様に、文字を持たない人間ではないだろうか。残念ながら、左利きという身体システムは、永遠に文字システムと対立するのだろう。左利きの人間が持てるのは、文字の代替品だけである。

文字で世界を把握したいと望む左利きの人間は、左文字を使わざるを得ないのではないだろうか。レオナルドの天才と比較する必要はないが、左文字によって、左人間がみずからに与えられた天分を最大限に生かすことは望ましいことだ。

 

ところで、レオナルドの左文字は、アルファベットの大小の文字を合わせてもわずか五二字に過ぎないが、われわれの日本語はひらがな、カタカナから常用漢字、人名用漢字を合わせると三千字程度ある。そこで左文字をマスターするには、あらためて学習する必要がある。単に左文字のレタリングを楽しむだけならすぐにできるが、実用レベルで左文字を使いこなすにはある程度の学習のプロセスが必要になってくる。

反対に、アルファベットと違い、漢字は表意文字で視認性が強く、その分日本語の左文字は理解しやすい。一度、左文字をマスターすれば、一生文字を書く楽しみを自分のものにして生活することができる。左利きの人間は右文字は当然書けるので、さらに左文字を身につけることによって、書く場面でバイリンガルとしてゆたかな言語生活を送ることができる。

左文字のすすめ⑤

レオナルド・ダ・ヴィンチの左文字①〉 


 歴史上、左文字を書いて素晴らしい業績を上げた例として、レオナルド・ダ・ヴィンチが挙げられる。

 彼は生涯に、現存するだけでも四千枚に及ぶ克明な手稿(ノート)を残していて、周知のように、絵画や彫刻だけでなく、解剖学、工学、天文学、数学、地理学、音楽など実に多方面にわたる研究を行い、そのほとんどを左手を使い左文字(鏡文字)で記している。

 

レオナルドはみずからを「文字を持たない人間」と称していた。ふつうは「文字」とは学問を指すようだが、レオナルドの場合示唆的で、文字そのものとも考えられる。理由のひとつは、彼は言葉よりも図やデッサンのほうがはるかに真実を表現できると考えていたし、もうひとつは、彼は左利きなので、そのままでは文字を書けなかったからではないだろうか。イタリア語もラテン語も、地上のどの言語も左手で書くようにできていない。

レオナルドが文字を持つというのは、文字の代替品を書けるということではなく、全身全霊をこめて、世界に光を充て、切り裂き、探求する文字のことだ。全能を使い、真実と価値を明らかにする文字だ。彼はもちろん左文字を使ってそれをやり遂げたが、それにもかかわらず、自分は文字を持ってないと言わざるを得なかった。

左文字のすすめ④

〈なぜ左文字がよいのか

ではこうした問題に、左利きの人間はどう対処したらよいのだろうか。

 さいわい現在ではデジタル技術の進歩でパソコンが普及し、会社や役所のような社会的な場面では、手書きでなく、パソコンによる印刷字体を使用するのが一般的になった。これはタイプライターの歴史のある欧米と違って、日本語では初めてだろう。文字を使用する場面を、社会的な場面と個人的な場面に分けられるようになった。  

 

そこで、日記やメモ、ノートのような個人的場面では、通常の文字=右文字を左右に反転させた文字、つまり左文字を書くことを提唱したい。左文字を使用することによって、上記の一、二、三の問題を解消できるし、四の問題もひとつのストレスを除くことができる。なぜなら、左文字で、左利きの人間は書字行為に違和感がなくなるからだ。それどころか、文字を書く本来の喜び、楽しさが得られることになる。これは右利きの人間が右文字を書く状態と、まったく同じ条件になることだ。

社会的な場面では社会に通用する右文字を書き、個人的な場面では自分のために左文字を書く。つまり左利きの人間は、二つの文字を使う文字言語のバイリンガルになるのがよいだろう。

書道についても、左利きの人間は左文字を書くことによって、本来の芸術の活動として成立することになる。左利きでありながら書道の伝統文化に参加することができる。

左文字のすすめ③

〈なぜ右文字はよくないのか

 そこで左利きの人間にとって、なぜ現状の文字(右文字という)を書くのが不都合なのか。おもに左手で書く場合だが、右手で書く場合も裏返しで同じような不都合がある。

具体的には、次のような点があげられる。

 第一に、左利きは、漢字を上手く書くことができない。ひらがなも漢字も右手で書くようにできているからだ。ときどき左利きの人が腕をくねらせて字を書いているのを見かけるが、あれは何をしているかといえば、肘を九〇度曲げ、手首を九〇度曲げ、一八〇度回転させて、左手を右手のポジションに持ってきている。左手で擬似右手を作っているのだ。あの窮屈さできれいな字を書くことはできないし、傍目にも見やすいものではない。

 またときに、左利きにもかかわらず、サラサラと滑らかな様子で書いているのを見かけることもある。しかしたいていの場合書かれた文字を見ると形の崩れた文字になっている。左手でサラサラ書くには文字の形を崩すしかないからだ。どちらにしても左手ではきれいな文字を書けない。

 右手と左手では、力の方向が違う。たとえば、左手ではかんたんなニンベンもサンズイも正しくは書けない。シンニュウなどは到底書けない。「月」や「刀」のかんたんなハライやハネも左手では書けない。結局、左手で書けるものは、漢字の代替品にしかならない。

 文字をきれいに書けないと、自分の字に自信が持てないし、好きになれない。これは心理的にも社会的にも不利益になる。自分で書いたメモやノートも事務的に扱うだけで愛着をもてない。ビジネス場面でも自分の字を他人に見せたり、手書きで申請書や企画書を書いたり、履歴書を作成したりするときでも不利になる。

 

 第二に、これは大事なことだが、左利きの人間は文字の代替品しか書けないので、ひらがなや漢字を書いても気持ちが楽しくなれない。漢字は一つ一つの字画の中に、気持ちがこもる仕組みになっていて、その仕組みに乗れるか乗れないかは大きな問題になる。

 文字を書いて楽しめないことは、見過ごすことのできない欠陥で、書く楽しみから疎外されることは、毎日の生活の質に関わることだ。

 文字を使って記録したり、感情を表現したり、深く思索したりするときに、文字に心がこもり滑らかに書ける楽しみがある場合と、ない場合とでは、生きる喜びの質が違ってくるのではないだろうか。

 

 第三に、漢字の書字には、背景に書道という文化伝統がある。書道は漢字文化圏にしか存在しない世界に誇れる芸術だ。三千年の漢字の歴史に育まれた文化で、中国の六朝文化で盛んになり、日本にも導入され発展し、現在に至っている。

しかし、左手で漢字を書くことは、この書道文化から否応もなく断絶されることになる。左手でかろうじて漢字の代替品を書いていたのでは、書道にならない。右手で書いても本来の働き手でないほうを使うことになる。書道は絵画と違って、書かれた結果だけを見るのでなく、書く行為そのものも課題にしている。書く過程の精神統一のあり方が問題であり、書かれたものはその結果に過ぎないという考え方をする。書道は大胆さも繊細さも表現するが、その動作は槍投げの投擲のように、槍をより遠くに送るために全身全霊を手先に込める行為のようなものだ。

 したがって、左手で漢字を書くことは、書道の伝統を享受することもできないし、継承、発展させることもできない。最初から書道文化に参加する機会を奪われている。小中学の習字や書道で、いやな思いをした左利きの人も少なくないだろう。

 

 第四に、左利きの人間の書字行為がストレスの一因になり、様々な問題が社会的に指摘されている。日本ではじめて左利きの問題が社会的に提起されたのは七十年代で、左利きの子供と神経症の関係を調査した精神科医の研究だった。神経症のような精神障害になる子供のなかに、左利きの割合が多いことを指摘したものだ。

同様に発達障害や不登校、社会不適応、不活発な生活などがあげられる。原因は左利きに対するすべての社会的圧力が考えられるが、書字行為も確実な一因だろう。

 

 この四つの問題は、それにもかかわらず、実際は無視されている。現実は左利きの人間は、右手を使ったり、左手を使ったりして、なんとか右文字の漢字を書いている。それは漢字の代用品に過ぎないけれど、それで日々をやり過ごしている。それで学校で学習し、会社で仕事をし、家庭で自分の生活や思いを記録している。とりあえず習慣で代替品を書き慣れているので、それでやむを得ずよしとしているのに過ぎない。本来は左利きの書道家も、右手で書を書かざるを得ない。

 

 しかしこのやり方では、左利きの人間は、積極的な文字を書く喜びは得られない。なぜなら、脳科学で言う利き脳と利き手の働きと漢字システムの矛盾を、左利きの人間は解消できないからだ。現状でも代替品を作ることで代償行為的には解消できるかもしれないが、本来の文字を書く喜びを実感することはできない。

左文字のすすめ②

左利きの人間が文字を書くこと〉 

  ひらがなや漢字はシステムとして右手で書くように、歴史的に形成されてきた。世界の言語を見ても、文字は右手で書くようにできている。言語は主に左脳の機能なので、右利きの人間によって作られ、発展してきたものだろう。

しかし全国民が使うようになったということは、当然左利きの人間も含まれ、彼らも毎日のようにさまざまな目的で使うようになった。

一般に、右利きと左利きは、九対一の割合で存在するといわれるが、文字使用の場合、この多数対少数の割合は認められず少数は無視され、全員右利きとして扱われてしまった。

本来、社会システムは人間のために作られるが、漢字システムは右利きの人間に合わせて作られたので、左利きの場合、人間のほうがシステムに合わせなければならなくなった。

しかしこれは不合理ではないだろうか。とくに現在では脳科学が進歩し、左利きは単に所作や習慣の問題でなく、脳の構造に関連していることが明らかになっている。利き手は利き脳で決まり、男女の脳の違いのように、脳の機能的に違うものだ。質的に異なるので、量的に扱うと不当になる。

 

左利きの人間でも、矯正されて右手で書く人と、左手で書く人がいる。矯正されて右手で書く人は漢字の書き方は適合するが、利き脳の右脳との関係にねじれがあり、機能的に不完全になる可能性があって、やはり上手く書けない。左手で書く人は利き脳との関係は合うが、文字を反対に書かざるを得ない。結局、右手で書いても、左手で書いても、問題があることになる。

左文字のすすめ①

はじめに----現代で文字を書くこと


 忙しい現代生活を送っているわれわれは、毎日のように新聞、雑誌、書籍、インターネットなどでたくさんの文字情報に接して、頻繁に読み、書きをしている。会社でも、学校でも、家庭でも文字情報は大量に利用されている。

 

 しかし歴史的に見れば、現在のように全国民が、大量に、頻繁に、文字情報を扱うようになったのは、ごく最近のことである。教育制度が整い、高学歴化が進み、経済社会が拡大し、社会のネットワークが発展し、雑誌や書籍が大量に発行され、パソコンが普及しインターネットが普通に利用されるようになった現代の現象といえる。

 

 ところで現在使っている日本語は、漢字は中国で三千年前の古代文字から改良して発展したもので、ひらがな、カタカナは千年前に日本で作られたものだ。どちらも成立当初から長い間、ごく一部の役人や知識人だけが限られた用途で使用し、大多数の一般大衆には無縁のものだった。

現在の漢字の原典になっている一八世紀清朝の康煕字典の成立当時でも、中国での識字率は五%程度に過ぎなかったし、実際に文字を書く人の割合はさらに少ないだろう。日本の事情も同様と思われる。そういう古い文字が、長い年月を経て多少の簡略化はあれ、現在でも一般に使われていることは、考えてみれば、驚くべきことだ。

 

 このように長い間、ごく一部の人間しか用途のなかった文字が、現在のように全国民が頻繁に使うようになって、社会の大きな進歩があった反面、何か不都合はないのだろうか。

2010年1月11日月曜日

実践 アルファベット


 アルファベットです。

 実際に書いてみると意外と簡単なような気がします。数字と同じように、形がはっきりしています。すこし練習すればできるとおもいます。

 日本語と違って、ローマ字を使う言語はこの52文字を憶えればすべての言葉を書き表せます。表音文字の便利さは、日本人には想像の出来ない世界です。

 レオナルド・ダ・ヴインチは、この左文字を使っていました。

 日本語の左文字からみれば、かなり楽そうですが、もちろん、文字を綴るのは楽でも言葉を使って深く思索することは別の話です。

実践 数字


 数字も、左文字として見慣れないと分かりにくいものです。

 いろいろな数字を表してみました。

 ただ、書く場合は意外と早く慣れるような気がします。

 形がわかりやすいので、早くなじめると思います。

実践 カタカナ ラ行、ワ行


 ラ行、ワ行です。

 「レ」は「ヒ」と同じようなたて線から左にのばす線の感覚です。

「リ」や「ル」は間違わない優しい線だとおもいます。

「ヲ」は「ヨ」や「ユ」と同じような右向きの人の横顔のような感覚でよいとおもいます。


これで、ひらがな、カタカナが終わりました。かなり書けるようになったとおもいます。


実践 カタカナ マ行、ヤ行


マ行、ヤ行です。

 「ミ」は手前に三本引く感覚になれる必要があります。

 「メ」は「ノ」「ナ」と同様で、左上から右下に降ろす斜め線になれるのがコツです。

「ヨ」「ユ」は「コ」と同様に、右向きの人の横顔のようなイメージです。左手で人の横顔を描くときに現れる形になります。


実践 カタカナ ナ行、ハ行


 ナ行、ハ行です。

「ヒ」のたて線は、以外と飲み込みにくい線です。下まで下げた後、左に曲げる感覚になれる必要があります。

「ノ」と「ナ」の左下に払う感覚も、なれる必要があります。






実践 カタカナ サ行、タ行


サ、タ行です。

「サ」はひらがなの「せ」とまぎらわしいので注意です。

「シ」と「ツ」は、まぎらわしいですが、右文字の時と同様、左文字でも慣れればとまどうことはないです。

「ソ」と「ン」も書くときは簡単ですが、読むときはすこし紛らわしいです。



2010年1月10日日曜日

実践 カタカナ ア行、カ行


カタカナです。ア行、カ行です。

 ひらがなより書きやすいと思います。

 しかし、なんども練習が必要です。

 「イ」「ウ」「ク」「ケ」のななめ線は、慣れれば同じ感覚で出来ると思います。

「オ」のななめ線は、書き慣れてもときどき右下か左下か迷う線なので注意です。

実践 ひらがな 解答



 大変長いのでわかりにくいかも知れません。

 その場合は、単語に分解して見てください。

 とにかく、ひらがなを何度も書いて、書き慣れることと、見慣れることが一番大切です。

 それから、練習するときに、薄い紙に文字を書いて、それを裏から見て、確認しながら書くと効果的です。裏から見ると普通の右文字が見られるからです。


実践 ひらがな 練習問題


 左文字(鏡文字)のひらがなさえできれば、早速意味のある言葉を書いてみたらよいでしょう。

 ではひらがなの練習問題を出します。

  次の文章を書いてみてください。漢字の部分もすべてひらがなにしてください。

正解は次回に出します。

 

実践 ひらがな ら行、わ行


 ら行、わ行、んです。

 「ら」は簡単なわりにとまどう字です。

 「わ」と「れ」と「ね」はいっしょに憶えやすいです。

 「を」は上部と下部のバランスに注意です。曲線と曲線の組み合わせ方に慣れる必要があります。

 これでひらがながすべて終わりました。ひらがなが書ければ最低限のことは表現できます。なんども練習する必要があります。

 ひらがなは、漢字を一通り習った後でも、結局一番難しいものです。ひらがなが漢字の崩し字でできているからでしょう。

 ですから、ある程度出来たら、次に進んだほうがよいとおもいます。

 それでも、ある程度進んだら、書きやすさに気付くとおもいます。そして、左文字の良さや書きやすさわかるでしょう。書くときに呼吸の心地よさがあります。

実線 ひらがな ま行、や行


 ま行、や行です。

 「め」は「ぬ」と一緒に憶えるといいです。これは「あ」とおなじように、わりと難しいのではないでしょうか。

 一字一字、ストロークを味わって書くと楽しめる字だとおもいます。

 「ゆ」と「む」は、かなり難しいです。今までの右文字の記憶が強い分、かなりとまどうはずです。目が回るような感覚です。


 



実践 ひらがな な行、は行


 な行、は行です。

 左文字を習い始めたときに、つかみにくいことのひとつに、「に」や「は」や「ほ」の字にある最初のストロークが、右側のたて線です。いままでの右文字の感覚からとまどうことです。これはまず、柱を立てて字を安定させるという感じで身につくと思います。

 これはあとで、漢字を習うとき、人偏や垂れを書くときに、役立つ感覚です。

2010年1月9日土曜日

実践 ひらがな さ行、た行


さ行、た行です。

字形を見て、何度も白紙に書いて筆致を確かめてください。

「さ」と「ち」は、左文字は紛らわしいので、注意が必要です。この二字はもともと逆文字のようです。そこで書くときは、「さ」は円弧の部分をはっきり切って、「ち」は連続させて書くのがコツです。

サンプルの「さち(幸)」が、よい例です。

2010年1月3日日曜日

実践 ひらがな あ行、か行


 ひらがなから始めます。

 これから、順に左文字のサンプルを示しますので、真似して何度も書いて練習してみてください。教科書体と楷書体を表示します。

 「あ」はすこし難しいので、「い」や「う」のような簡単な字から始めたらいいでしょう。

 あ行の「お」は、A4など、なるべく大きな紙で書いてみてください。上から降ろした線を右から左へ円弧を描くようにストロークを回したときの心地よさがあります。

 私が、はじめて左文字を手放せないと思ったのは、この「お」を描いたときです。「お」の円弧を書くときの心地よさはほんとうに発見でした。始めて味わう伸び伸びとした感覚でした。まさに手と脳が喜んだようです。

 実際に、これを左手で普通の右文字を描くときの違和感や心地の悪さと比較すると、いかに左文字がよいか分かります。 「う」のストロークも同じような感覚を味わえます。

実践 はじめに③ 学習期間  



 では左文字をマスターするのに、どのくらいの期間を目標にしたらよいのか。

 はっきり決める必要はないけれど、右図のように、一応ひらがなから始めて常用漢字までマスターするのに1~2年掛けるのがよいと思います。

 普通に練習すれば1年で出来るといえます。

 当然ですが、左文字を練習するのに、小学生が文字を学習するときに使う漢字練習帳のようなものは現状では存在しないので、すべて自分で工夫して練習する必要があります。このブログでは、ひらがなから常用漢字までの左文字を表示するつもりですので、参考にしてください。

 急いで練習すれば、常用漢字まで、3~6ヶ月で出来ないことはないと思います。

 ただあまり急ぐと、私の経験では、心理的に不安定になることがあるので、注意した方がよいでしょう。

 それは我々のまわりはすべて、現実社会すべてが右文字でできているので、そのギャップに目と頭がついていけず、一時的に気持ちが不安定になることがあるからです。しかし、左文字に慣れるにつれて、気持ちも安定して来ます。慣れてバイリンガルの状態になることで、ふたつの文字を自然に受け入れられるとおもいます。

 今までの習慣で馴染んだこととは違う、新しいことを身につけようとしたときには、ときに起こることかも知れません。

 そこで、左文字の学習には、一年くらいで出来るけど、もう少しじっくりとやって二年掛けてもよいし、その努力を三年続ければ、一生身についた宝物になり、一生文章を書く楽しさと喜びのある生活ができるといえると思います。なぜなら左人間は、左文字ではじめて脳と手を自然に使うことが出来るからです。

実践 はじめに② 散文の例




 つぎに、散文を見てみます。

 1は小説の文章で、2と3は分野は違いますが、学者の論説文です。

 それぞれ読んでみれば、文章の内容に、感覚的にも、論理的にも入っていけると思います。    



 

そこで次の左文字(鏡文字)を見てください。

 同じ文章ですが、やはり違和感があり、読みにくいのではないでしょうか。あるいはほとんど読めないのではないでしょうか。

 この文章から内容の理解に進んで、感覚的に理解したり、論理の筋を追うのは大変だと思います。

 これはかなり上級コースだと思います。これこそ最終目標でしょう。

 実際は、このような他人の文章の左文字を読む機会はないとおもいます。

 しかし最終的には、この程度に高度の左文字を理解できるようになりたいところです。それは自分で書いた左文字を読んだり、それで考えたりするために、必要だからです。実用レベルの左文字とは、このレベルです。

 レオナルド・ダヴィンチは、こういう文章を書いて、深く思索し、自分の天才を拓いたのです。