2009年12月16日水曜日

実践 はじめに① 詩文の例


 これから、左文字を実際に書く練習をしていきます。ひらがなから、順に、カタカナ、数字、アルファベット、漢字と練習していきます。

 その前に、われわれの目標を見定めておきます。単に左文字(鏡文字)をレタリングのように書けるだけでなく、左文字を日常生活の実用とすることを目指したい。

 そこで、まず左文字のイメージをつかむためにいくつか例を示します。

 右の詩歌を見ていただきたい。

①は、ご承知のように万葉集の有名な額田王の歌で、古代天皇たちのおおらかな恋の歌です。

②も、ご承知のように芭蕉の句で、字面からでも、林間に響く蝉の声が聞こえてきそうです。

③も有名な啄木の歌で、明治の清々しい叙情が言葉の表現から強く感じられます。

これら三つの歌はどれも文字の表面を見ただけで、すなおに歌の世界に引きつけられ、頭の中にその情景がありありと浮かんでくるのではないでしょうか。

 

 では、次の詩歌はどうでしょうか。すぐに気付くでしょうが、反転してもまったく同じ歌です。

 しかし、同じ歌だとは分かりながら、違和感が先に立ち、なんともいえない分かりにくさがあるのではないでしょうか。せっかくの歌の世界に浸りたくても感覚的に浸りきれないもどかしさが、あると思います。

 左文字をはじめて見たときだれでも感じるところです。ほんとうに新しいものに触れたときは、たいてい眩暈(めまい)に似た途惑いがあるものですが、左文字も嫌悪に近い、途惑いがあるかも知れません。

 何とも言えない違和感に圧倒されるところから、左文字の学習は始まると思います。

 我々の最終目標ですが、今は違和感しか感じられないかも知れない左文字でも、いつかは見慣れて普通に感動できるようになることです。

 左文字が容易に感じられるようになるまで慣れることによって、左文字で普通に生活できることを目標にしたいと思います。


2009年11月16日月曜日

現代に手書きは不要か

 左文字(鏡文字)といっても、現代では手書きそのものの必要性が少なくなってきたので、わざわざ取り上げる価値はあるのか、との声があります。

 たしかに、現状では、ジャーナリスト、官僚、学者、研究者、作家、ライターなど、文書作成や著述を職業にする人は、手書きをしないで、パソコン書きをする場合が多くなっている。パソコンの便利さ、効率を考えたなら合理性があり、手書きはますます影が薄くなる傾向にあるようだ。

 しかし、便利さ故に、社会生活ではますますパソコンの使用頻度が高くなり、その結果、いわゆるITボケとか、ゲーム脳といった現象が一般的に指摘されるようになった。記憶力の低下、思考力の低下など、脳の機能の低下が見られるようになったのだ。とかく便利なもの、魅力のあるものは、多用され、濫用されがちなので、当然の結果とも言える。

 いわば、パソコン書きという負荷の小さい活動しかしない筋肉が、あまりその楽な状態に慣れて萎縮してしまい、本来の力を失ってしまう状態になるようなものだ。一例をいえば現代文学に傑作が出なくなったのも、作家が手書きをやめたからだという専門家の指摘もある。

 これは右人間であろうと、左人間であろうと変わりない。右手書きしようが、左手書きしようが、全く同じことだ。手書きの動きは、パソコン書きと比べて、脳を広範囲に活動させることが知られている。その分、脳をよく活動させることになる。したがって、手書きの意義は、パソコン万能の時代にこそ、むしろ重要になってくるだろう。

 また今でも、日記やノート、メモは、普通は手書きで行われている。仕事やビジネスなどの場面でもそうだろう。むしろ仕事のような真剣勝負の場面こそ、利き腕を使った、つまり自分の脳をフル回転させた書字の行為が望ましいはずだ。それなら左人間には左文字がふさわしいことになる。

 左文字をあえて書く提案は、現代では意味がないどころか、ますますその価値はあると思われる。

2009年11月11日水曜日

習字と書道について

  小中学校で習う習字についてですが、左利きの生徒が、右手で右文字(普通の文字)を書くのは困難です。かれらが普段どちらの手を使っていてもつらいものです。彼らには、左手で左文字(鏡文字)を書くことを承認すべきと思います。習字はただ文字を憶えるだけでなく、書道に通じているはずですから、習字の学習目的からみても当然のことだと思います。

  書道は書いた文字の結果を求めるものではなく、書く過程、運動を求めるものです。単に書いた結果の文字を求めて、左手で、いかに右手で書いたかのように見せるイミテーションを求めても意味がないからです。習字の目的が、イミテーション作りでいいはずはないと思います。

  スポーツ行為と同様に、左人間は、利き手の左手で、呼吸を整えながら、全身を使って書くのが書道なので、学校は書いた結果の左文字(鏡文字)を認めるべきだと思います。でないと、左人間は、不自然な書く動作を強いられるわけで、習字ないし書道を好きになれず、文字を書く楽しみを奪われてしまうでしょう。

  現状では、習字の時間を密かに嫌がっている左利きの生徒が、少なからずいるのではないかと想像します。

2009年11月8日日曜日

左文字をだれが、どう活用していくか

  左文字(いわゆる鏡文字)をだれがどう活用したらよいのか、ということを書いてみたいと思います。

  すでに、右文字(普通の文字)を書く習慣のある左人間は、左文字を使うことに関心があれば、それなりの学習をして、左文字を書く能力を身につけるのがよいはずです。どちらの文字も使えるバイリンガルになれば、ダ・ヴィンチのように脳を十分活用できる言語生活が出来ることになります。

  では、今学習している小学生や、中学生はどうなるかと言えば、まずは、右文字を学習した方がよいと思います。社会の9割は右文字を使うので、それが理解できることは重要です。それから、大人と同様に関心があれば、左文字も学習したらと思います。すくなくとも、左文字という方法が選択肢としてあることは、認識した方がよい。すぐに学習に取りかからなくても、将来時間のあるときにできるという選択肢は大切です。本人の言語生活をどう豊かにするかということです。

  左人間は、大人も子供も、左右の文字が使えるバイリンガルになったほうがよいと思います。ただ現在の社会は、日常生活全般にわたって、右システムの支配する右社会です。左人間にとって、いろいろな条件が悪くて、なかなか学習が難しいですから、その点は検討する必要があります。

2009年11月5日木曜日

矯正に関する専門家の意見について

 書字の矯正について、教育心理学や精神科医などの専門家の本を何冊か読んで、気になることを書きます。

 共通していることは、無理な矯正はしないほうがよいということですが、一例として、いまは簡便にウィキペディアを引用します。

 『日本においても未だに強制的な利き手の「矯正」のもたらす悪影響が認知されていないことと、左利きに対する偏見を持つ者がいまだ多いため、強引な変更が行われることがある。

 さらに悪いケースでは、無理な矯正のストレスが原因で吃音になってしまっても、その原因が無理な矯正にあることを理解できずに、吃音への偏見を嫌がってさらに根性論を振りかざして子供の吃音を矯正しようとする親も存在し、いたずらに症状を悪化させ、子供を苦しめることもある。

 一部には我が子をクリエイティブな能力のある子供に育てようと、右利きの子供を左利きにしようとする変更の例もあるが、同様に悪影響があるため全く薦められない。』(「左利き」項より)

 この引用にあるように、まだ一般社会に左利きに対する偏見があるので、この知見は価値あるものだと思います。他の意見も、矯正は全くだめとか、3才ぐらいまでならよいとか、多少の違いはありますが、無理をしないことは共通しています。


 ここまではよいのですが、私の考えでは、この先が全く抜けているのが残念です。

 左利きの子を矯正しない、という正しい道の入口まで導いたのはよいが、その入口が問題です。なぜなら、そこには、漢字システムという完全な右システムが待っているからです。

 これでは大きな片手落ちになるのではないだろうか。漢字システムは、専門外だというならそうかも知れない。しかし、それでは研究対象の子どもたちに対して、不親切で不十分と言わざるを得ない。だれのための教育心理学か精神医学かと疑問が浮かんくる。

 子どもが(大人もそうですが)、わざわざ手をくねらせて字を書くような姿勢はよくない、これは社会問題だ、という感覚が必要ではないでしょうか。

 矯正の問題は、右システムに苦しむ左利きの人間のためにあるといえる。それなら、右システムの漢字システムまで切り込んで、検討すべきだと思います。そこで、左文字(鏡文字)を真剣に検討すべきだと思います。

2009年11月4日水曜日

左文字は、誰に向いているか

 左文字は誰に向くのだろうか、ということについて考えてみたい。

 結論を先に言えば、すべての左利きの人に向いていて、右文字も、左文字(鏡文字)も、書けたらよいと思います。つまり、左人間は両方の文字を書けるバイリンガルになるのがよいと言えます。そうなると、余計な一手間というか、学習の大変さがありますが、その分喜びもあるといえます。右文字は社会用、左文字は自分用です。

 ただ、そうは言っても、左人間は現状で、とりあえず右文字を書いているので用は足りているはずです。そこで、向いている人ですが、現状に違和感、窮屈さ、不快感を感じている人です。必要度が高い人に有効です。

 もう一つ、ある程度時間の余裕のある人です。単に、鏡文字を書けるレベルでなく、実用レベルになるには少しずつの練習で1、2年はかかる。この程度の時間を見ておく必要があります。ただ、いったんマスターしたら、言葉と心地よい付き合いが出来るので、左文字は一生の宝になると思います。

 忙しい人に向いていないか、というとそうでもないと思います。ビジネスのように、真剣な場面こそ、自分の利き手で文字を自然に書ける方が、脳を十分活用できるので勝負が出来ると思います。もっとも、練習する時間がないと難しいかも知れませんが。

 もし右利きの人が、左手で左文字を練習した場合は、いわゆる脳力開発になると思います。普段使っていない脳や手を使うので、いい刺激になります。求めるレベルは、左文字を書けるだけでもよいかも知れませんが、やはり、日記を書くなどの実用レベルまでやれば、さらに脳の刺激になると思います。もう一つ有効なのは、左文字を筆で書く練習です。習字や書道のレベルです。筆で一文字一文字を左文字で書くことは、脳に深い刺激を受け、密度の濃い時間を持てると思われます。

2009年11月1日日曜日

左利きの脳科学について

 脳科学は左利きをどう見ているのか、関連することを私の知る範囲でまとめてみます。この分野の書籍はかなりありますが、私の読んだのはそのごく一部です。

1 左利きと右利きでは、関与する脳の半球が異なり、左利きは右脳、右利きは左脳に関連する。

2 右脳は、簡単に言うと、イメージ能力で総合的な認識機能になり、右脳は、論理能力で分析的な認識機能になる。ただ、機能が左右の脳に局在することだけですべての脳の活動を説明できず、欠けた機能を反対の脳が代償的に働くこともある。

3 左利きと右利きでは、脳の働きはどうなるかということでは、『脳の探検』(ブルーム著、講談社、1987年)に、「和田テスト」という実験が紹介されていました。

 被験者に発話をしてもらって、そのときに、左脳と右脳を順番に麻痺させて機能させないと、発話にどう影響するかというものです。

 そこで、複数の被験者で実験を繰り返した結果、右利きの95%は、左脳で発話と言語をコントロールしていて、5%が発話は右脳でコントロールされていることが分かった。

 左利きの場合、70%が、右利きと同じ様に、左脳で言語がコントロールされ、15%が右脳で発話していて、15%は両方の脳が発話をコントロールしている。


 興味深い結果ですが、この実験から、左利きの人間はどう受け止めたらよいのか。左人間の30%(ウィキペディアは30~50%)は、発話のとき右脳を使っていることになります。右脳は左手が関与しているところです。

 しかし、われわれのように、左文字を検討する場合、この分類はどこまで意味があるのか分からないところがある。左人間は、矯正されない限り、左手を使いたいので、この点では右脳と関係しますが、書字行為は、言語に関する脳の部位のちがいだけでは説明できないと思われます。

 脳科学は、私の読んだ範囲では、まだまだ発展途上の科学で、これから解明されなければならないことが多い、とのことです。左利きの脳科学についても同様ではないかと思われます。


 左人間が文字を書く場合、普通は右手でも、左手でも、右文字を書きますが、そのことは脳に負担を与えないか、と疑問を持ちます。永い訓練で、特に違和感のない人が多いかもしれませんが、それでも完全な満足感はないのではと思われます。

 脳科学的にみて、左利きが使うには、左文字と右文字(普通の文字)のどちらがよいかを考える場合、言語機能だけでなく、脳の運動をコントロールする機能について見てみる必要がある。 私の調べが不足しているところですが、右文字を書く場合と、左文字を書く場合で、脳にどんな変化があるのか知りたい。書字行為の本質を理解したいのです。

参考資料 文献目録

とりあえずこれまでの関連文献を上げておきます。

◎日本語・漢字表記

『日本語の歴史』 山口仲美 岩波新書 2006

『日本語はどう変わるか--語彙と文字』 樺島忠夫 岩波新書 2003

『横書き登場--日本語表記の近代』 屋名池誠 岩波新書 1981 


◎書道

石川九楊『書の風景』筑摩書房、1983年

石川九楊『書と文字は面白い』新潮社、1993

滝尻祥風『いま言わねば 祥風独語抄』新日本教育書道院、1991

禰津和彦『書道心理学入門』図書出版、1989


◎漢字の歴史

黄文雄『日本語と漢字文明』  ワック株式会社、2008

白川静『文字講座Ⅳ』平凡社・2005 

石川九楊『漢字がつくった東アジア』築摩書房・2007 

大原信一『新・漢字のうつりかわり』東方書店・1989 

水上静夫『漢字文化の源流を探る』太修館書店・1997 

阿辻哲次『漢字學』東海大学出版会・1985

白川静『文字講話Ⅳ(第二十話漢字の将来)』平凡社、2005

石川九楊『漢字がつくった東アジア』

阿部哲次『漢字學ーー説文解字の世界』東海大学出版会1985

『中国の漢字問題』蘇培成他編、阿辻哲次他編訳 大修館書店1999

エツコ・オバタ・ライマン『日本人の作った漢字』南雲堂1990


◎左利きの脳科学

フロイド・E・ブルーム『脳の探検』講談社、1987

坂野登『かくれた左利きと右脳』青木書店、1982

角田忠信『右脳と左脳-その機能と文化の異質性』小学館(680円) 昭和56年初版

平出隆『左手日記例言』白水社(2800円) 1994年2刷

八田武志(名古屋大学教授)『左ききの神経心理学』医歯薬出版株式会社(3400円) 1996年初版 

西山賢一『左右学への招待 --自然・生命・文化』風濤社(1600円) 1995年第1刷

『言語と脳』L.K.オブラー、K.ジュァロー、若林茂則監訳、新曜社、2002年

『見る脳・描く脳』岩田誠、東京大学出版会、1997年

R.L.モンタルチーニ『老後も進化する脳』朝日新聞出版、2009年

◎左利きと社会


◎レオナルド・ダ・ヴインチ

高草茂『「モナリザ」は聖母マリア』ランダムハウス講談社、2007

イタロ・カルヴィーノ『カルヴィーノの文学講義』朝日新聞社、1999



2009年10月25日日曜日

なぜ左文字がよいか③


 では、実際に文字を書くときの手の動きを調べてみると、右図のようになる。これは基本動作を示したものだ。

 図は人体を頭上から見た平面図だ。図にある手の位置は、自然な姿勢のときの基本位置(ホームポジション)になる。
 腕の位置は、肩から前にまっすぐ伸び、やや身体の内側に傾いている。

 手の周りの丸い範囲は手が動く範囲になり、矢印は手の動く方向になる。

 字を書くときに、手が伸びては、基本位置に戻ってくるのが、自然な動きになる。ちょうど、パソコンのキーボードで、指がホームポジションから出ては、戻ってきて、次の動きに入るのと同じ理屈になる。

 書字の場合、ホームポジションに戻るため、押して遠ざかる動作よりも、引いて近づく動作のほうが、線のコントロールがしやすい。そこで、引く動作のときに、強い線になり、押す動作のときは、いわば返しのように、弱い線になるか、線を引かない状態になる。

 黒い矢印は、左右の手が同じように動き、赤い矢印は反対に動くことを示している。

 下の図は、左右の手の筆致(ストローク)を取り出して示している。①、③、④は同じだが、②の横線と、⑤の下からの斜め線が左右の手では反対になる。実際の漢字の筆致は曲線もあり、もっと複雑だが、この基本の動きのバリュエーションと見なすことができる。

 左利きの人が字を書いているのを、傍で見ていて不自然に見えるのは、②と⑤の動きのときに、手の動きが反対になるからだろう。

 この図で示されたものが、右手と左手の自然な動きになる。このことが、第一に重要なことだ。身体の自然な動きが保たれることが、どんな社会システムより先に重視されなければならない。


 そこで、漢字を書く場合に戻ると、すべての漢字の字形は、上の図の右手の筆致と基本的に一致している。右手を使って書くように出来上がっているので、漢字は右システムといえるだろう。

 たとえば、日、月、土は、タテ線と、ヨコ線でできている。火、水、木、金は、タテ線と斜め線とヨコ線でできている。これらは左右対称に近いが、やはり右手の動きが基本の筆致になっている。

 水と、求の違いは、求は右手でしか描けない斜め線がある。⑤の線である。男や女や友は、右手でしか書けない斜め線の筆致がある。サンズイや、ニンベンなどの斜め線も右手でないと不自然な線になる。シンニュウやコロモヘンも、右手でしか正確には書けない。上の図の左手の筆致ではない線だから。月の、ハライやハネも右手のためにある。

 すべての漢字も、ひらがなも、カタカナも、右手で書くように筆致が出来上がっている。

 

 これを、左手で書く場合、そのまま書くことになると、本来左手では出来ない動きをしなければならない。筆順などという細かい決まりもある。ここに、左利きの人間は、大きな無理とストレスを感じざるを得ない。このことは過小評価すべきでなく、人によっては、ストレスから学習障害になったり、自閉症になったりするのではないだろうか。

 たとえ、病的にまで至らなくても、左利きの人間は、不快感やストレスを感じて、字を書くことに楽しみや喜びを見出せず、文章を書くことから遠ざかってしまったら、これは、さらに大きな問題になると言わざるを得ない。

 もし、左利きの人が、左文字を書いたなら、これは、右利きの人が、普通に字(右文字)を書くのとまったく同じ状態になり、何の問題を起こらない。

 むしろ、漢字システムが長い間培ってきた、右システムのすばらしさを、左利きの人はそのまま享受できることになる。だから、左人間は、左文字を使用すべきだと思う。

2009年10月17日土曜日

なぜ左文字がよいか②

 前回の内容をもう一度繰り返します。

 右利きは右腕を使い、左利きは左腕を使う、という基本的な条件が一番重要です。これは、右利きは左脳、左利きは右脳の機能の関係の重要さと同じだと思います。

 そして、右腕と左腕は、可動域と可動方向が違います。つまり、左右は違うようにしか動かないし、動けない。対照的にしか動けない。それが身体の自然だからです。

 スポーツで見ると、たとえば、野球は、球を捕るとき、右利きは右利き用のグローブを使うし、左利きは左利き用のグローブを使うので何も不都合がない。システムが左右の違いを吸収できている。

 ところが、書字行為は、右利きは問題ないとしても、左利きでも右用のグローブを使うしかない状態になる。なぜなら左用のグローブがないから。これでは十分な捕球動作が出来ない。

 問題は、書字行為に使う漢字システムは、右用のグローブしかないことです。漢字という社会システムは、歴史的に形成されてきた完全な右システムです。左システムを受け入れる余地はないのです。左人間は、漢字システムを使う限り、たとえどれだけ慣れたとしても、不自然であり、いわば代償行為にしかならない。

 書字行為において、代償行為である限り、どんなに努力したとしても、100点満点で言えば、60点、70点のぎりぎりの合格点しかとれないでしょう。右利きであれば、満点近い点もとれるのに、左利きははじめから制約を受けているわけです。

 オーバーな言い方をすれば、健常者と障害者が同じルールでマラソンをするようなものです。両者がともにベストのパフォーマンスをしたとき、障害者はいつも不利です。これは明らかに不合理になる。

 ですから、左人間は、左文字を使うのが正しいのです。

2009年10月14日水曜日

なぜ左文字がよいか①

文字を書く行為はどんなことか。

 それは、右手なり、左手なり使うが、腕全体を使うし、反対の腕も無意識にも補助的に使われ、さらに両肩、首、腰、両足も、書くときの腕の動きに合わせて、姿勢を保つために使うことになる。そして当然司令塔として脳を使う。つまり、全身を使う。ただし、右手を使う場合と、左手を使う場合とでは、動きは反対になる。

 これは、スポーツの行為と全く同じことになる。たとえば、野球なら、ピッチャーが球を投げる時に全身をしならせて投げる。投げる腕だけ動くわけではない。サッカーでも、走ったり、蹴ったりするときに、全身が動いている。もちろん脳を使うし、身体の全部分を使っている。

 この場合、誰でも、主に利き手や、利き足を使う。それは利き脳を使うことであり、最高の力を出すために、当然だ。もし、利き手や、利き足でないほうを使ったら、最高のパフォーマンスを引き出すことはできない。もちろん、練習によって利き手、利き足でないほうも使えるだろうけれど、それでもかなり違うはずだ。

 野球やサッカーは、左利きだからといって何の支障もない。テニスや、バドミントンなどの場合も、ラケットを左右に持ち替えるだけで、とくに不利はない。

 文字を書く行為も同じ全身運動なので、利き手によって左右反対の動きをするのがよい。つまり、右利きの人間は、右文字(現状の文字を指す)を使い、左利きの人間は左文字(いわゆる鏡文字)を使うのが合理になる。だから、左人間は、左文字を使うのがよい。

 要は、書く行為は、身体の全身活動になるので、利き手が最高に活用できる方法が一番よいことになる。それが、左人間は左文字になる。

左文字、わたしの場合

 わたしはこの左文字(いわゆる鏡文字)をこの一年ほど練習しています。といっても時間がないので、とびとびに空いた時間をやっています。最初は、ひらがなから、そしてカタカナ、数字とやりました。それから、いわゆる学習漢字、常用漢字とやっていきました。

 いまでは、大体書けるようになりました。そこで、メモとか簡単な日記を左書きしています。使った感じは大変いいものがあります。違和感がなくなり、手と脳が一体になっているというか、透明になっているような気がします。前のイライラは忘れられています。

 とはいっても、これはかなり大変な作業のような気がします。文字を書けるだけでは十分でなく、言葉はたいてい二字でできていますから、連続した二字を書くときには、また新しく書かなければならないことになり、頭の使い方が違うような気がします。そこで、普通に文章を書くときは、コレはコレで新しい練習をしなければならないことになります。

 それから、書いた左文字を、後で読むのはなかなか大変です。読んで理解する、考える、感じる、という作業はかなり大変なことになると思います。楽に書けると思っても、次の日にはなかなか書けないこともあります。

 しかし、ダ・ヴィンチはコレを実際にやったのも事実です。ですから、不可能な話ではなく、しっかり練習すれば誰でも出来るのではないかと思っています。
 でも、ダヴィンチはイタリア語なので50字ぐらいと思いますが、我々日本人は、3000字ぐらいひっくり返さなければならないことになります。コレを本気でやるには、ダ・ヴィンチよりも相当困難なことをしなければならないわけです。

 そんなことで、本当に実用になるには、二、三年かかるのではないかと思います。実用レベルへ行けばいいなと思って続けています。

2009年10月12日月曜日

用語について

 このブログでは、新しいことを提案したいので、新しい言葉を使います。これから書き進めるのに必要な用語を、決めておきたいと思います。

①右(みぎ、以下同じ)人間  右利きの人

 左(ひだり、以下同じ)人間  左利きの人

②右文字  学校で習い、一般に使われる文字。ひらがな、カタカナ、漢字

 左文字  ダ・ヴィンチが書いた左右を反転させた文字、鏡文字、逆文字と言われたもの

③右手書き    右手で文字を書くこと。

 左手書き  左手で文字を書くこと。右文字を書く場合も、左文字を書く場合もある。

④右社会  現在ある一般社会

 左社会  左利きの人間に合うように作られている社会。現在は存在しない

⑤右システム  現状の右利きの人間に合う社会システム。左利きには不便なシステム

 左システム  左利きの人間に合う社会システム

⑥右書道  現行の書道

 左書道  左文字の書道


 用語で一番重要なキーワードは、「左文字」です。鏡文字、逆文字、裏文字、反転文字などの言い方があるようです。しかし、鏡文字は、鏡に映すと普通に読めるのでそう言うのだと思いますが、特殊な文字のイメージがあり、逆文字、裏文字、反転文字は、原則に対して例外的な文字だという、否定的なイメージが含まれます。どちらにしても特殊で例外的なものです。

 それに対して、左文字は、ニュートラルなイメージで特殊性がない。この用語を使うことで、対照的に現在の漢字を右文字と呼ぶことができる。こうして漢字使用の現状を相対的に見ることが出来るので、わたしはこの言葉を使います。左文字は、特殊でも例外でもなく、右文字と同様に対等の価値を持つと思うからです。

2009年10月11日日曜日

このブログの目標は

 左利きのレオナルド・ダ・ヴインチは、左文字を使って脳のフル活動させ、万能の天才になった。同じように左利きの人間は、左文字を使うことによって、天才といわずとも、自らの天分を拓くことに大いに役に立つと思われる。

 ところが、我々日本人が左文字を書く場合、大きな問題がある。それは我々の使っている文字は、漢字という表意文字で、語数がかなり多い。ダ・ヴィンチの場合、ローマ字の大文字、小文字で52字だけです。実際にやってみれば分かりますが、ちょっと練習すれば、左利きならだれでもこのくらいの左文字ならすぐに書けるようになる。ダ・ヴィンチが左文字をやすやすと書けるのは、まったく当たり前のことなのです。(だたし、字を書けることと語を書けることは違います)

 しかし、我々の場合、ひらがな、カタカナ、常用漢字、人名漢字だけでも約3000字ある。その他にも必要な漢字はある。いわゆる漢字検定などでも、第二水準の6000字ぐらいを対象にしているようだ。ここでは一応3000字を目標にするにしても、実際に書けるようになるにはある程度の練習が必要になる。

 この左文字を使えるようになるには、持続的な努力が必要になるので、しっかりした目的や意欲、学習の方法論といったものが求められてくる。

 そこで、このブログの目標は、左利きの人間が左文字(いわゆる鏡文字)を使う価値を明らかにし、その学習の仕方を工夫し、社会の中で左文字が普及するための条件を考えたい。そのために具体的には次のようなことを目標にします。

1 左利きであることはどんなことなのか、現代の脳の研究を訪ねて、左利きの特徴などを調べる。そして、左利きであることの特徴を理解し、左手で文字を書くことに確信を持てるようにする。

2 漢字の特徴や歴史、現在までの変化を明らかにして、その特徴を理解する。そして、左文字が成り立つ条件を検討する。

3 左利きの人間と、社会との関係について考える。

4 左文字の学習の仕方を考える。


  ところで、左利きの人間は社会の中にどのくらいいるだろうか。わたしがいくつか見た統計では、数字に幅があるが、大体1割といってよいらしい。これは、日本でも海外でも同じぐらいのようだ。そこで、ここでも左人間は人口の1割で、右人間は9割という数字を使っていきたい。

 すると日本では左人間は1200万人いることになる。決して少ない数字ではない。むしろかなり多数といえるだろう。東京都の人口と同じくらいになる。

 左人間が、生活していて不便なのは、文字だけでなく、生活全般にわたっている。それを日々何とかストレスを感じながらも、やり過ごしているのが現状だと思う。

 書字行為も、わたし自身は右手を使って書くが、書きながらいつも違和感を感じている。なにかいつも隔靴掻痒の気分が続いている。書いている内容に半透明のスクリーン一つ隔てられているようで、実感を持てない。それがいつも悩みだった。

 左利きで、左手で書く人は身障者のように腕をくねらせて窮屈な姿勢で書いている。わたしにはこの動作はほぼ虐待に見える。本人が本当に望んだものでなく、社会的に強いられているからだ。見ている周囲の右人間も何か不自然な窮屈な感じがするようだ。

 左人間が、左手で書こうが、右手で書こうが、右文字を書いている限りは、この違和感から解放されない。もっとも左人間はみんな、あまり気にしてないようだが。生活の必要に迫られ、進んで適応して、やむを得ないことなのだろう。 

 でも、あまり社会的な抑圧が強すぎて、左人間は自分の気持ちを外部に現せないのではないかとも思います。

 話は飛躍しますが、アメリカ大統領のオバマさんが、マスメディアの人々の前で始めて大統領令にサインするとき、例の左利きの人特有の腕をくねらせた窮屈な姿勢でペンを構えたときに、記者たちの視線を感じて、オバマさんは「私は左利きです。みなさん、慣れてください。」といっているのをテレビで見ました。

 私は残念に思いました。アメリカでも、右文字の呪縛は強いようです。


2009年10月10日土曜日

レオナルド・ダ・ヴィンチから考える


 イタリア・ルネッサンスの天才、レオナルド・ダ・ヴィンチが万能の才を発揮したことは、人々に広く知られていますが、生涯に一万枚以上の研究ノートを書き、そのほとんどを左手で、しかも左文字(いわゆる鏡文字)を書いたことはあまり記憶されていません。(右写真はノートの一枚です。二枚目の拡大図では、行の右側は揃っているのに、左側が不揃いです。ダヴィンチが左文字を書いているのがわかります。※注)

 左文字は一見暗号のようにも見えるので、なぜそんなことをしたのか、ということに、研究者の憶測がいくつかありますが、要はダ・ヴィンチが左利きだったからというのが妥当なところだと思います。


 そこで思うのですが、もしダ・ヴィンチが右手に矯正されていたら、あるいは、左手を使っても、普通に書かれる文字(私はこれを右文字といいます)を書いていたら、おそらくダ・ヴィンチはあれほどの天才を拓けなかったのではないでしょうか。なぜなら、実際にやってみれば分かりますが、左利きの人間は、左手を使っても、右手を使っても、右文字を書くのはかなりのストレスになります。どんなに慣れても、違和感は消えないからです。

 自然を探求したダ・ヴィンチが、こんな不自然なストレスと闘いながら、天才になれたでしょうか。人体の構造をあれほど深く研究したダ・ヴィンチが、わざわざ自然に反した腕の動きをしなければならない右文字を書くことは、考えにくいことです。 

 ダ・ヴィンチが天才になったのは、左文字を使ったからこそではないか。つまり、ダ・ヴィンチ自身にとって一番やりやすいやり方をして、脳をフル回転させたからだと思います。左利きにとって、左文字こそ、脳を一番よく使う方法なのです。

 ですから、左利きの人は、ダ・ヴィンチのように、反転した文字を書くのがよいのではないでしょうか。ダ・ヴィンチの天才と比較する必要はないのですが、左利きの人は、一人一人が自分に与えられた天分を最大限に拓くには、この左文字を使うのが正しいと思います。

※注 写真の出典は、高草茂『モナリザは聖母マリア』ランダムハウス講談社、2007年