2010年2月23日火曜日

左文字のすすめ⑥

レオナルド・ダ・ヴィンチの左文字②〉 

イタリアの作家イタロ・カルヴィーノは、レオナルドについてこう述べている。

「表現からなおも逃れ去ろうとする何ものかを捉えようと言葉を相手に闘うもっとも意味深い手本が、レオナルド・ダ・ヴィンチです。レオナルドの手稿本はより豊かで緻密、かつ的確な表現を求める言語との闘い、扱いにくくごつごつと節くれ立っている言語との闘いの驚くばかりの記録です。」

さらにカルヴィーノは、レオナルドが左文字を綴りながらも、文字を使って人間と世界をいかに正確に記述するかに、全霊を傾けたことを次のように語っている。

「彼のなかには書くことへのたえざる欲求が存在していたのでした。この世界をその多様多面において、またさまざまな秘密の奥深くを探るためにも、また自分の空想力や感動やまた怨念に形を与えるためにも、文字を使いたいという欲求です。」

「そのため、彼はますます書くことが多くなるのでした。年とともに、彼は絵を描くことをやめ、文章を書きながら、スケッチをしながら考え、あたかもデッサンと言葉によってただひとつの論を続けてゆくというようにして、あの左利きの鏡面文字でノートを埋めているのでした。」
 (イタロ・カルヴィーノ『カルヴィーノの文学講義』(米川良夫訳)朝日新聞社、1999) 

カルヴィーノが指摘したような、レオナルドのこうした激しい言葉との格闘は、左文字なくして想像できない。そのことは彼の膨大なノートの存在が証明している。彼の全能を使うには、彼には左手と左文字が必要だったのだ。

考えてみれば、すべての左利きの人間は、レオナルドと同様に、文字を持たない人間ではないだろうか。残念ながら、左利きという身体システムは、永遠に文字システムと対立するのだろう。左利きの人間が持てるのは、文字の代替品だけである。

文字で世界を把握したいと望む左利きの人間は、左文字を使わざるを得ないのではないだろうか。レオナルドの天才と比較する必要はないが、左文字によって、左人間がみずからに与えられた天分を最大限に生かすことは望ましいことだ。

 

ところで、レオナルドの左文字は、アルファベットの大小の文字を合わせてもわずか五二字に過ぎないが、われわれの日本語はひらがな、カタカナから常用漢字、人名用漢字を合わせると三千字程度ある。そこで左文字をマスターするには、あらためて学習する必要がある。単に左文字のレタリングを楽しむだけならすぐにできるが、実用レベルで左文字を使いこなすにはある程度の学習のプロセスが必要になってくる。

反対に、アルファベットと違い、漢字は表意文字で視認性が強く、その分日本語の左文字は理解しやすい。一度、左文字をマスターすれば、一生文字を書く楽しみを自分のものにして生活することができる。左利きの人間は右文字は当然書けるので、さらに左文字を身につけることによって、書く場面でバイリンガルとしてゆたかな言語生活を送ることができる。

左文字のすすめ⑤

レオナルド・ダ・ヴィンチの左文字①〉 


 歴史上、左文字を書いて素晴らしい業績を上げた例として、レオナルド・ダ・ヴィンチが挙げられる。

 彼は生涯に、現存するだけでも四千枚に及ぶ克明な手稿(ノート)を残していて、周知のように、絵画や彫刻だけでなく、解剖学、工学、天文学、数学、地理学、音楽など実に多方面にわたる研究を行い、そのほとんどを左手を使い左文字(鏡文字)で記している。

 

レオナルドはみずからを「文字を持たない人間」と称していた。ふつうは「文字」とは学問を指すようだが、レオナルドの場合示唆的で、文字そのものとも考えられる。理由のひとつは、彼は言葉よりも図やデッサンのほうがはるかに真実を表現できると考えていたし、もうひとつは、彼は左利きなので、そのままでは文字を書けなかったからではないだろうか。イタリア語もラテン語も、地上のどの言語も左手で書くようにできていない。

レオナルドが文字を持つというのは、文字の代替品を書けるということではなく、全身全霊をこめて、世界に光を充て、切り裂き、探求する文字のことだ。全能を使い、真実と価値を明らかにする文字だ。彼はもちろん左文字を使ってそれをやり遂げたが、それにもかかわらず、自分は文字を持ってないと言わざるを得なかった。

左文字のすすめ④

〈なぜ左文字がよいのか

ではこうした問題に、左利きの人間はどう対処したらよいのだろうか。

 さいわい現在ではデジタル技術の進歩でパソコンが普及し、会社や役所のような社会的な場面では、手書きでなく、パソコンによる印刷字体を使用するのが一般的になった。これはタイプライターの歴史のある欧米と違って、日本語では初めてだろう。文字を使用する場面を、社会的な場面と個人的な場面に分けられるようになった。  

 

そこで、日記やメモ、ノートのような個人的場面では、通常の文字=右文字を左右に反転させた文字、つまり左文字を書くことを提唱したい。左文字を使用することによって、上記の一、二、三の問題を解消できるし、四の問題もひとつのストレスを除くことができる。なぜなら、左文字で、左利きの人間は書字行為に違和感がなくなるからだ。それどころか、文字を書く本来の喜び、楽しさが得られることになる。これは右利きの人間が右文字を書く状態と、まったく同じ条件になることだ。

社会的な場面では社会に通用する右文字を書き、個人的な場面では自分のために左文字を書く。つまり左利きの人間は、二つの文字を使う文字言語のバイリンガルになるのがよいだろう。

書道についても、左利きの人間は左文字を書くことによって、本来の芸術の活動として成立することになる。左利きでありながら書道の伝統文化に参加することができる。

左文字のすすめ③

〈なぜ右文字はよくないのか

 そこで左利きの人間にとって、なぜ現状の文字(右文字という)を書くのが不都合なのか。おもに左手で書く場合だが、右手で書く場合も裏返しで同じような不都合がある。

具体的には、次のような点があげられる。

 第一に、左利きは、漢字を上手く書くことができない。ひらがなも漢字も右手で書くようにできているからだ。ときどき左利きの人が腕をくねらせて字を書いているのを見かけるが、あれは何をしているかといえば、肘を九〇度曲げ、手首を九〇度曲げ、一八〇度回転させて、左手を右手のポジションに持ってきている。左手で擬似右手を作っているのだ。あの窮屈さできれいな字を書くことはできないし、傍目にも見やすいものではない。

 またときに、左利きにもかかわらず、サラサラと滑らかな様子で書いているのを見かけることもある。しかしたいていの場合書かれた文字を見ると形の崩れた文字になっている。左手でサラサラ書くには文字の形を崩すしかないからだ。どちらにしても左手ではきれいな文字を書けない。

 右手と左手では、力の方向が違う。たとえば、左手ではかんたんなニンベンもサンズイも正しくは書けない。シンニュウなどは到底書けない。「月」や「刀」のかんたんなハライやハネも左手では書けない。結局、左手で書けるものは、漢字の代替品にしかならない。

 文字をきれいに書けないと、自分の字に自信が持てないし、好きになれない。これは心理的にも社会的にも不利益になる。自分で書いたメモやノートも事務的に扱うだけで愛着をもてない。ビジネス場面でも自分の字を他人に見せたり、手書きで申請書や企画書を書いたり、履歴書を作成したりするときでも不利になる。

 

 第二に、これは大事なことだが、左利きの人間は文字の代替品しか書けないので、ひらがなや漢字を書いても気持ちが楽しくなれない。漢字は一つ一つの字画の中に、気持ちがこもる仕組みになっていて、その仕組みに乗れるか乗れないかは大きな問題になる。

 文字を書いて楽しめないことは、見過ごすことのできない欠陥で、書く楽しみから疎外されることは、毎日の生活の質に関わることだ。

 文字を使って記録したり、感情を表現したり、深く思索したりするときに、文字に心がこもり滑らかに書ける楽しみがある場合と、ない場合とでは、生きる喜びの質が違ってくるのではないだろうか。

 

 第三に、漢字の書字には、背景に書道という文化伝統がある。書道は漢字文化圏にしか存在しない世界に誇れる芸術だ。三千年の漢字の歴史に育まれた文化で、中国の六朝文化で盛んになり、日本にも導入され発展し、現在に至っている。

しかし、左手で漢字を書くことは、この書道文化から否応もなく断絶されることになる。左手でかろうじて漢字の代替品を書いていたのでは、書道にならない。右手で書いても本来の働き手でないほうを使うことになる。書道は絵画と違って、書かれた結果だけを見るのでなく、書く行為そのものも課題にしている。書く過程の精神統一のあり方が問題であり、書かれたものはその結果に過ぎないという考え方をする。書道は大胆さも繊細さも表現するが、その動作は槍投げの投擲のように、槍をより遠くに送るために全身全霊を手先に込める行為のようなものだ。

 したがって、左手で漢字を書くことは、書道の伝統を享受することもできないし、継承、発展させることもできない。最初から書道文化に参加する機会を奪われている。小中学の習字や書道で、いやな思いをした左利きの人も少なくないだろう。

 

 第四に、左利きの人間の書字行為がストレスの一因になり、様々な問題が社会的に指摘されている。日本ではじめて左利きの問題が社会的に提起されたのは七十年代で、左利きの子供と神経症の関係を調査した精神科医の研究だった。神経症のような精神障害になる子供のなかに、左利きの割合が多いことを指摘したものだ。

同様に発達障害や不登校、社会不適応、不活発な生活などがあげられる。原因は左利きに対するすべての社会的圧力が考えられるが、書字行為も確実な一因だろう。

 

 この四つの問題は、それにもかかわらず、実際は無視されている。現実は左利きの人間は、右手を使ったり、左手を使ったりして、なんとか右文字の漢字を書いている。それは漢字の代用品に過ぎないけれど、それで日々をやり過ごしている。それで学校で学習し、会社で仕事をし、家庭で自分の生活や思いを記録している。とりあえず習慣で代替品を書き慣れているので、それでやむを得ずよしとしているのに過ぎない。本来は左利きの書道家も、右手で書を書かざるを得ない。

 

 しかしこのやり方では、左利きの人間は、積極的な文字を書く喜びは得られない。なぜなら、脳科学で言う利き脳と利き手の働きと漢字システムの矛盾を、左利きの人間は解消できないからだ。現状でも代替品を作ることで代償行為的には解消できるかもしれないが、本来の文字を書く喜びを実感することはできない。

左文字のすすめ②

左利きの人間が文字を書くこと〉 

  ひらがなや漢字はシステムとして右手で書くように、歴史的に形成されてきた。世界の言語を見ても、文字は右手で書くようにできている。言語は主に左脳の機能なので、右利きの人間によって作られ、発展してきたものだろう。

しかし全国民が使うようになったということは、当然左利きの人間も含まれ、彼らも毎日のようにさまざまな目的で使うようになった。

一般に、右利きと左利きは、九対一の割合で存在するといわれるが、文字使用の場合、この多数対少数の割合は認められず少数は無視され、全員右利きとして扱われてしまった。

本来、社会システムは人間のために作られるが、漢字システムは右利きの人間に合わせて作られたので、左利きの場合、人間のほうがシステムに合わせなければならなくなった。

しかしこれは不合理ではないだろうか。とくに現在では脳科学が進歩し、左利きは単に所作や習慣の問題でなく、脳の構造に関連していることが明らかになっている。利き手は利き脳で決まり、男女の脳の違いのように、脳の機能的に違うものだ。質的に異なるので、量的に扱うと不当になる。

 

左利きの人間でも、矯正されて右手で書く人と、左手で書く人がいる。矯正されて右手で書く人は漢字の書き方は適合するが、利き脳の右脳との関係にねじれがあり、機能的に不完全になる可能性があって、やはり上手く書けない。左手で書く人は利き脳との関係は合うが、文字を反対に書かざるを得ない。結局、右手で書いても、左手で書いても、問題があることになる。

左文字のすすめ①

はじめに----現代で文字を書くこと


 忙しい現代生活を送っているわれわれは、毎日のように新聞、雑誌、書籍、インターネットなどでたくさんの文字情報に接して、頻繁に読み、書きをしている。会社でも、学校でも、家庭でも文字情報は大量に利用されている。

 

 しかし歴史的に見れば、現在のように全国民が、大量に、頻繁に、文字情報を扱うようになったのは、ごく最近のことである。教育制度が整い、高学歴化が進み、経済社会が拡大し、社会のネットワークが発展し、雑誌や書籍が大量に発行され、パソコンが普及しインターネットが普通に利用されるようになった現代の現象といえる。

 

 ところで現在使っている日本語は、漢字は中国で三千年前の古代文字から改良して発展したもので、ひらがな、カタカナは千年前に日本で作られたものだ。どちらも成立当初から長い間、ごく一部の役人や知識人だけが限られた用途で使用し、大多数の一般大衆には無縁のものだった。

現在の漢字の原典になっている一八世紀清朝の康煕字典の成立当時でも、中国での識字率は五%程度に過ぎなかったし、実際に文字を書く人の割合はさらに少ないだろう。日本の事情も同様と思われる。そういう古い文字が、長い年月を経て多少の簡略化はあれ、現在でも一般に使われていることは、考えてみれば、驚くべきことだ。

 

 このように長い間、ごく一部の人間しか用途のなかった文字が、現在のように全国民が頻繁に使うようになって、社会の大きな進歩があった反面、何か不都合はないのだろうか。