2010年6月19日土曜日

なぜ大作家は右利きなのか、という問い

なぜ大作家は右利きなのか、という問いを、いままで問われたことはあるのだろうか。

考えてみれば、世界の大作家といわれる人々は、すべて右利きだったのではないだろうか。

たとえば、フランスのヴォルテール、ユゴー、バルザック、フロベール、モーパッサン、ゾラなど、ロシアのプーシキン、ゴーゴリ、ツルゲーネフ、トルストイ、ドストエフスキー、チェーホフ、イギリスでは、シェークスピア、デフォー、スウィフト、ディッケンズ、ハーディ、ウルフ、ローレンスなど、イタリアでは、ダンテ、ペトラルカ、ボッカチオ、モラヴィア、タブッキ、エーコなど、アメリカでは、アラン・ポー、メルヴィル、ホイットマン、ジェイムス、ヘミングウェイ、スタインベックなどの世界的な作家と呼ばれる人は、すべて右利きだったのではないだろうか。

日本でも、たとえば夏目漱石、森鴎外、島崎藤村、芥川龍之介、太宰治、谷崎潤一郎、川端康成、三島由紀夫など、あるいは吉川英治、山本周五郎、松本清張なども、右利きだった。

ここにあげたのは、もちろんほんの一例で、ほかにも優れた作家はたくさんいるが、その中で、左利きだったと知られる作家はいたのか、寡聞にして聞いたことがない。

これは他の芸術分野、音楽や絵画や建築などと比較して際だった現象ではないだろうか。これらの分野では、左利きだと知られた偉大な芸術家は、何人もいるからだ。

なぜ大作家は右利きなのだろうか、という問いは、なぜ左利きに大作家はいないのか、という問いにつながっている。

左文字は、こういう世界にも、役立つのではないだろうか。

2010年6月16日水曜日

左文字(ひだりもじ)の可能性

左文字の可能性を考えてみたい。

文字は突き詰めれば、線で作った図というか形になる。左手で書く場合、気持ちは文字を書くというより、絵を描くような感じになる。そこから書くことを繰り返して、少しずつ詰めていって文字になるという感じだ。

そこで左文字は最初は絵のようなもので、ひとつひとつの筆致はあまり意味のないものだ。そして筆致の積み重ねがひとつの絵になる。それからひとつひとつの筆致が意味を持ちはじめ、ペン画のような鉛筆画のようなものになる。それから線そのものも意味を持ちはじめ、書道のようなものに発展してくる。もっともそれは左文字になる。

これで完全に左手は自由になる。完全にとは、脳も身体全体も自由になるということだ。

2010年6月6日日曜日

文字の読みやすさとは

 左文字を書いてみて、その読みにくさを考えてみてわかることは、文字とは結局、図形に過ぎないということで、読みやすさは、その図形に馴染んでいるかどうかできまるということだ。

 逆に、右文字つまり普通の文字はなぜ見やすいのか、というか、全く違和感なく自然に見えるのかと言えば、それはしょっちゅう見ていて、まったく見慣れていて、もうそこに文字があるというよりも、文字のかたまりがあるということで、文字のかたまりの背後にある意味やイメージが見えているからだろう。

 結局のところ、左文字を使いこなすには、左文字が読めるだけでなく、左文字の背後にある意味やイメージを読めるまで、習熟する必要があることになる。しかしこれは、われわれが普通の文字が読めるようになった学習過程とまったく同じことだ。つまり、なんども文字を書き、連語を書き、文章を書いて、手と脳を使い、憶えたように、やることだろう。

 文字は線で作った図形に過ぎない、ということは、一般的には当然なことかも知れないが、わたしには、この左文字を通してはじめて実感として気付いたことで、新鮮な発見だった。

2010年6月5日土曜日

左文字(ひだりもじ)・わたしの現状と課題

 左文字(鏡文字)を練習してかれこれ2年ほどになる。いまは、日記やメモはなるべく左文字で書いていて、かなり自然に書けるようになった。一番難しい「読む」作業も、ある程度馴染んできた。

 左手で左文字を書いていて気付くのは、これは特殊な技能ではなく、ごく普通のことではないかということだ。というのは、このことは、右手で普通に文字を書くのとまったく同じことになるからだ。これは、意外と気がつかないことで、わたしもしばらくは気がつかなかった。これを知るには、試しに、紙に左文字を書いて裏から見ると右文字になっているし、逆に右文字を書いて裏から見ると左文字になっていることからわかる。

 いいかえれば、左人間が左文字を書くことは、ふつうに人が文字を書くこと、つまり右人間が右文字を書くことと、まったく同じことになる、ということだ。

 ということは、左利きの人間は左文字を書くことによって、ようやく人並みに、つまり右人間並みになれた、ということではないだろうか。

 わたしの今後の課題として、左文字でさらに深く、考え、感じ、記憶するということだと考えています。このことを考えると、レオナルド・ダ・ヴインチはやはりすごい人だと思います。