平出隆氏の文章は心に滲みて愛着を感じるので、ていねいに引用させていただく。
鏡文字(左文字)について書かれている。
「私が鏡文字、あるいは鏡映文字というものをはじめて目のあたりにしたのは、レオナルド・ダ・ヴインチのあの有名な手稿にではなく、美術大学を中退したばかりの友人からの手紙においてだった。」
「手紙を受け取ってしばらくしてから会った折、この鏡映文字について話がおよんだのだろう、卵(友人のこと)は愉快そうに紙を取り出すと両の手に一本ずつ鉛筆を握り、うまく同時に動かして、同じ字を二つ書き付けた。
ただし、左の手になった字は、右手になった字が傍らに立てた鏡に映し出されたかたちに、裏返っていたはずである。」
友人に促されて、著者も左手で鏡文字を書いてみようとする。両手でやるとどうにか書けるが、左手だけではうまくいかない。著者は言う。
「左手だけで反転した文字を書こうとしたが、手が惑うばかりか意識がはなはだ混戦した具合になり、その混戦した意識の線が、書かれるべき文字の線と、宙において見紛うみたいになったところで、筆尖は立ち往生してどうにも先へ進まなくなる。」
「なるほど、むつかしいもんだなあ、と鉛筆を投げ出し、そこに笑いがかぶさった。」
この記述にわたしは驚嘆する。はじめて左文字を書いたときの意識の混濁が、著者の簡潔な言葉によってみごとに描出されている。
さらに注目すべき記述がある。
「おおよそはそんなことだったという程度の曖昧な記憶の中で、しかしひとつだけ、その笑いの中で不意にもってしまって、いまに残っている感覚がある。」
「おれは鏡文字なぞ書かないぞ、という感覚といえばいいか。」
右利きの人間にとって、鏡文字を書かないのはごく自然なことだ。なにしろ左手で反転した文字を書かなければならないからだ。これは苦痛以外の何ものでもないだろう。
では、左利きの人間にとってはどうなるのだろう。右手で普通の文字(右文字という)を書くときは、じつはまったく同じ状態になる。そうならば左利きの人間にとっても、苦痛以外の何ものでもないということになる。
「おれは鏡文字なぞ書かないぞ、という感覚」をもてるのは、著者のみならず、すべての右利きの人間の特権だろう。
もし同様に、左利きの人間が「おれは右文字なぞ書かないぞ、という感覚」をもって文字を書くことを拒否したら、その人間の社会生活が成り立たないからだ。
文字言語にはこういう不合理があることを社会はほとんど意識していない。
しかし著者の鋭い直感はこうした不合理を見逃していないようだ。
「アルファベットにしろ漢字や仮名にしろ、文字というものは右利きにふさわしくできているらしい。左手にペンをとればペン先は紙の上で、ときにみずからの行程にブレーキをかける格好にきしむ。