2011年6月13日月曜日

平出隆の「左手日記例言」を読んで②

平出隆氏の文章は心に滲みて愛着を感じるので、ていねいに引用させていただく。

鏡文字(左文字)について書かれている。

「私が鏡文字、あるいは鏡映文字というものをはじめて目のあたりにしたのは、レオナルド・ダ・ヴインチのあの有名な手稿にではなく、美術大学を中退したばかりの友人からの手紙においてだった。」

「手紙を受け取ってしばらくしてから会った折、この鏡映文字について話がおよんだのだろう、卵(友人のこと)は愉快そうに紙を取り出すと両の手に一本ずつ鉛筆を握り、うまく同時に動かして、同じ字を二つ書き付けた。
ただし、左の手になった字は、右手になった字が傍らに立てた鏡に映し出されたかたちに、裏返っていたはずである。」

友人に促されて、著者も左手で鏡文字を書いてみようとする。両手でやるとどうにか書けるが、左手だけではうまくいかない。著者は言う。

「左手だけで反転した文字を書こうとしたが、手が惑うばかりか意識がはなはだ混戦した具合になり、その混戦した意識の線が、書かれるべき文字の線と、宙において見紛うみたいになったところで、筆尖は立ち往生してどうにも先へ進まなくなる。」
「なるほど、むつかしいもんだなあ、と鉛筆を投げ出し、そこに笑いがかぶさった。」

この記述にわたしは驚嘆する。はじめて左文字を書いたときの意識の混濁が、著者の簡潔な言葉によってみごとに描出されている。

さらに注目すべき記述がある。

「おおよそはそんなことだったという程度の曖昧な記憶の中で、しかしひとつだけ、その笑いの中で不意にもってしまって、いまに残っている感覚がある。」
「おれは鏡文字なぞ書かないぞ、という感覚といえばいいか。」

右利きの人間にとって、鏡文字を書かないのはごく自然なことだ。なにしろ左手で反転した文字を書かなければならないからだ。これは苦痛以外の何ものでもないだろう。

では、左利きの人間にとってはどうなるのだろう。右手で普通の文字(右文字という)を書くときは、じつはまったく同じ状態になる。そうならば左利きの人間にとっても、苦痛以外の何ものでもないということになる。

「おれは鏡文字なぞ書かないぞ、という感覚」をもてるのは、著者のみならず、すべての右利きの人間の特権だろう。

もし同様に、左利きの人間が「おれは右文字なぞ書かないぞ、という感覚」をもって文字を書くことを拒否したら、その人間の社会生活が成り立たないからだ。

文字言語にはこういう不合理があることを社会はほとんど意識していない。

しかし著者の鋭い直感はこうした不合理を見逃していないようだ。

「アルファベットにしろ漢字や仮名にしろ、文字というものは右利きにふさわしくできているらしい。左手にペンをとればペン先は紙の上で、ときにみずからの行程にブレーキをかける格好にきしむ。












2011年6月8日水曜日

左利きの女の子と書道

 先日テレビである書道家の書道教室でのエピソードが紹介されていた。

 教室に通う小学生の女の子は左利きだった。左手で書きづらい筆順で、つらそうに筆を操っている。書かれた文字もいらだっている。女の子は立ち上がって、先生の前に進んでいう。「先生、書道って右手で書かなければいけないのですか。」

 すると先生は答える。「いけないことはないけど、両手で書けたほうがかっこいいでしょ。」

 女の子はそれを聞いて、にっこり笑って自分の席に戻った。それからは右手を使って字を書くようになり、やがて周囲のどんな子よりも上達した字が書けるようになった。

 わたしはこの話を聞いて、複雑な気分になった。

 なぜ、左利きの人間は左手で書道を楽しめないのか、楽しんではいけないのか。という素朴の疑問が湧いてくる。こうした疑問がなぜしっかりとみんなに受け止められないのか。なぜ真摯に社会に受け止められないのか。

 どこか社会の対応に憮然とするところがある。

 左文字(ひだりもじ)を発想するのが、そんなに困難なのだろうか。

2011年6月5日日曜日

左利きと右利きの割合

 ラジオで左右学の西山教授の話を聞いた。

 簡単にいえばこう言えると思う。

 人間はもともとは右利きと左利きの割合は半々ぐらいだったという。人間以外の動物は、利き手、利き足はない。

 確かな研究では、190万年前の石器の加工の跡を調べてみると、右利きと左利きは58%と42%になっているが、1万年前では、9対1の割合になっている。これは現在の状態と同じで、人間は1万年前から、変わっていない。

 西山教授の話では、石器の発達と、言語の発達は同じようなものだという。190万年前から、1万年前までの石器の発達には、左脳が関わっている。左脳は右手をコントロールしているので、右利きになった。それは言語の場合と同じだ。

 左脳の機能は、思考を司ると言える。思考は、論理性、合理性を追求する。石器の機能を発達させることと、言語の機能を発達させることがおなじなら、左脳を使えば使うほど、右利きが増えることになる。これが右利きが9割まで増えた理由だという。

 世界のすべての文字言語は、右手で書くことになっているのは、この左脳の役割で説明できる。

 では、右脳が利き脳の人の場合つまり左利きの人間は、文字言語と利き手の関係はどうなるか、という問題が残るのではないだろうか。

 とくに、現在のように、すべての人間が、ということは左利きの人間も含めて、文字言語を使う社会に生きる時代にあっては。



2011年5月14日土曜日

平井隆の「左手日記例言」を読んで①

平井隆の「左手日記例言」(1993年)という小さな本を読んだ。

 今からみると20年近く前に書かれた本だが、前から興味を感じていた。著者は詩人で本来は右利きだが、意識的に左手で書いた日記だとどこかで聞いていた。右利きの詩人が、あえて左手で字を書いたらどんな感想をもつのか、と関心をもっていた。

 著者は20代の半ばに右手に負った傷の後遺症から、右手でペンを持つことに不自由を感じ、左手で字を書く訓練を始める。その意味を自問する日記だ。

 利き手が多少とも不自由になるのはだれにとっても辛いことだ。利き手を使うことが、 仕事であったり、自分の生活の意味に結びついている人にはさらに辛い。著者は必要に迫られて、左手を使えるように励むが、そのつらい行為を、そしてあまり一般的でない経験を、どう肯定的に受け止められるかを探ろうとしている。

 著者が左手書きにそれほど違和感を感じていなかった理由が3点述べられている。

1 著者が編集者として担当したある老作家が、左手書きをしていたのを身近に見ていた。

2 左利きの友人の画家の卵から、鏡文字(左文字)を見せられた経験があった。

3 中学の頃、野球ではじめて左打席に入って打ったときの感覚が、開放的だった記憶がある。

2011年3月6日日曜日

左文字(ひだりもじ)とストローク

左文字を考える場合、ストロークという英語はいい言葉だと思う。

辞書で見ると、

1 ボートで、オールの一漕ぎ。

2 水泳で、手で水をかく動作。

3 ゴルフで、クラブでボールを打つこと。また、その打数。

4 テニス、バドミントンで、ラケットでボールを打つこと。

5 内燃機関など往復機関で、シリンダー内でピストンが一端から他端まで動く距離。

他にもペン画や鉛筆画で、線を描くことや、描かれた線の軌道をストロークという。

 これらの意味の共通するところは、手や腕の動きや、その距離をいうのだろう。

 これは文字を書く場合にもあてはまる。文字を書くことは、スポーツの動きと同じような運動になる。ボートの一漕ぎも、テニスのラケットでボールを打つことも、文字を書くことも同じ運動だということを、ストロークという言葉は、気づきさせてくれる。

 漢字も、一画一画を書くとか、画数とかいうが、この一画もストロークといえるだろう。手を使いながらも、同時に全身を使うスポーツと同じ動きとしてのストロークだ。

 ただし、運動のストロークと文字のストロークでは異なるところがある。運動の場合は左手と右手のストロークがおなじようにそして対照的に可能だが、文字の場合は不可能だ。なぜなら文字は右手のストロークでしかできないようになっているから。したがって左利きの人間には左文字が必要になってくるだろう。

2011年2月11日金曜日

第一日本語としての左文字(ひだりもじ)

わたしは今は、仕事のノートを左文字で書いている。すこし読みにくさは相変わらずだが。

そして現存の文字はすべて右文字(みぎもじ)なので、思考のときにいつもとまどう。わたしの気持ちは左文字で深く考えたいのですが、現存の文字がすべて右文字(つまり現存の本や新聞や雑誌)なので、なにかいつも気持ちが引けることがある。右文字で深く考えることにためらいが出てくるのはわたしの業のようなものだろう。やめることができない。障害者のような気分だろう。

そこで、最近考えたのだが、日本で生活するのに、右文字との付き合いを止めることができないので、これを第二日本語と位置づけることにしよう。第一日本語は、いうまでもなく左文字だ。

自分の文字はあくまで左文字だが、日本に生活上、やむを得ず第二言語としての右文字を使うということになる。つまり日本に生活することは、ひとつの外国に住むように位置づけてみようということだ。そしてやむを得ず外国語としての右文字を使うということだ。

こう考えると、自分の左文字を守ることができるし、右文字を使うときも平静でいられる。自分は今外国にいるのだから、ということで。

このアイデアはわたしの気持ちにあうようだ。これからもっと追求してみたい。


2011年1月29日土曜日

第二日本語としての右文字

 当然のことながら、現実の世界は右文字で満ちている。新聞、書籍も、街中も、どこも、すべてが右文字だ。

 左文字を使いたい場合、この現実にどう向き合ったらよいのだろう。すべての知識や情報は右文字でしか入ってこない。しかし左文字を使いたい。真剣に考えた場合、これは難問題だ。

 多勢に無勢だみたいな月並みな表現では、とうてい言い表せない。ほとんど、発狂を引き起こすかも知れない状態になっている。

 スペインのセルバンテスのドンキホーテを想い出す。おかしいと思いながら、もう引き返すことができない。前方に進むのみだ。振り返ると出発点はすでに見えなくなった。そのくらいは前に進んだ。しかしゴール地点はまったく見えない。

 こういう場合、どんな精神状態でいられるものか。まだはっきりしたものはわからない。いまはいらだちがあり、途惑いがある。すこしだけ耐えられる自信があるかもしれない。