2010年10月31日日曜日

左文字(ひだりもじ)のソフトが欲しい

自分では、左文字を書いていても、周りはすべて右文字(普通の文字)だ。左文字を書く環境は現状ではまったくない。

そこであらためて、左文字を書くために欲しいものを上げてみたい。まず左文字の辞書だ。本格的な百科辞典的な辞書から、簡単な用語用字辞典までほしい。

それから、左文字の日本文学全集や、世界文学全集が欲しい。文庫本でも欲しい。左文字で書かれた文学の世界に浸ってみたい。深い感性の世界を左文字で経験してみたい。

さらに、左文字で書かれた新聞や雑誌が欲しい。タイムリーなテーマを左文字で考えてみたい。

左文字で書けるソフトも欲しい。ワープロソフトだから、右文字も左文字もないのでは、ということにはならない。なぜなら、左文字を書くようになって気付いたことだが、文字には筆向きというか、風向きのような向きというか、筆を運ぶ方向があることが気になっている。

文字を読むときに、右文字を読むときと、左文字を読むときでは、気持ちの乗りが違うような気がする。左文字を読むときは、左手や腕が動いているような気がするし、脳がおそらく右脳が活動しているような気がするからだ。このことは小さいことではないように思える。だから左文字のワープロソフトがあることに意味があると思う。


2010年10月21日木曜日

左文字(ひだりもじ)に神が宿るとき

 左文字(鏡文字)を書き続けていると、いつかその左文字に神が宿るだろうか。そんなことを考えた。

 「言霊」という言葉を最近想い出した。ある辞書には、「言葉に宿っている不思議な霊威。古代、その力が働いて言葉通りの事象がもたらされると信じられた。」と書いてある。この説明の意味するところは、現代人にはわかりにくいのではないだろうか。

 しかし、左文字を実践している私には不思議に近しい感覚が湧いてくることがある。私が左文字を書くと、その書かれた左文字はひどくよそよそしい、まるで砂のような、石のような、荒野のような、まるで味気ないもののように見えて、その冷たさに冷え冷えとした心地のすることが多い。

 そうした過程の中で、その無機的な左文字の羅列の中でも、ときには、ちらちらと何か人間的な、温度のある意味のようなものが、つまり左文字を通してその奥に垣間見えるものを感じることがある。それはたぶん、わたし自身をそこに見いだすからだと思う。自分の言いたかったことを左文字の中に見いだしたことになる。
 それを繰り返すことによって、自分の繰り返しが見えることになる。その繰り返された自分というものは、つまり喜怒哀楽に包まれた自分であり、その中の共通項のようなものが見えてきたわたし自身だ。言葉の中にそういうわたし自身が見えてきたときに、言葉は次第に霊的なもの、神的なものになるのではないのだろうか。

 これを、身近な自然の里山のようなものにたとえてみたい。普通に見れば、里山はただの山に過ぎない。しかし子供の頃から、里山を見上げて育った人間は、うれしいときも悲しいときも、失敗したときも成功したときも、人が生まれたときも死んだときも、自分が変わっていくときも、その里山が変わらずにあることに気付いてくる。それが言葉のように変わらないことに気付いてくる。その対比で、変わっていく自分に気付いてくる。その里山に自分の生活のすべての記憶が刻まれてくる。そうなるとその人間にとって、里山は霊的なもの、神のようなものに感じられるのではないか。

 里山も、言葉も変わらない、変わるのは人間だけだという、つまり成長し老いて死んでいくのは人間だけだという現実から、言霊が出てきたのではないのか。言霊信仰は自然賛美に似ている。人間の存在を超えたものに対する憧れだろう。

 左文字を実践していると、言葉を新しく考えるきっかけになるかも知れない。右利きで右文字(つまり普通の文字)を長い間書いてきた人間にとっては、現代の文字から古代人のいう言霊を感じるような感覚は、なかなか出てこないものではないかと思う。